2018年3月16日金曜日

「萩城下町絵図」販売中!


萩博物館ミュージアムショップでは、時代別の「萩城下町絵図」を販売しています。それぞれの年代ごとに特徴があり、当時住んでいた藩士の屋敷や藩の施設の入れ替わりが分かります。古地図を見ながら各時代にタイムスリップしてみませんか。萩博物館企画展「萩の鉄道ことはじめ」をご観覧後にどうぞお立ち寄り下さいませ。また、NPO萩まちじゅう博物館では、イベント「古地図を片手にまちを歩こう2018.12018.12」で土日祝日に堀内地区をご案内しています。どうぞご参加下さいませ。
※明治維新ののち、萩は政治的、経済的な発展から取り残された半面、都市の変貌が最小限に食い止められたため、現在でも江戸時代の城下町絵図がそのまま使える町並みや街路が残っています。


① 萩城下古図 慶安五年(1652)…縦85cm×横69cm
本図に使用した原図は、縦1.45m、横1.33mの萩博物館所蔵の最も古い萩城下町絵図である。高さ143mの指月山付近を重点に、山頂の要害から山麓の本丸、二の丸、三の丸、そして外堀から外の城下を末広がり状に描いている。特に堀の広さ、深さ、石垣の高さ、長さ、矢倉や門などの建造物の高さ、広さ、また、周辺の山から城までの距離、川幅、橋の長さ、渡しの位置などが詳しく描かれている。また、三角州内には、いたる所に入江があり、中央部には大きな深田が広がり、「沼の城」といわれた初期の城下町の様子を見ることが出来る。なお、藩士の屋敷地は「侍」と表記されている。


② 萩城下町絵図 延享元年~四年(174447)…縦58cm×横82cm

本図に使用した原図は、縦3.31m、横3.12mの萩博物館所蔵の県内最大級の萩城下町絵図である。指月山にある萩城は、山頂に矢倉が配され、麓は内堀と中堀によって本丸と二の丸に区画されている。二の丸の南東方向には、三の丸(堀内)が広がり、主に支藩主や毛利一門をはじめとする上級家臣の屋敷及び藩の諸役所が置かれている。くすんだ白地に氏名が記されている箇所が侍屋敷地で氏名の頭が屋敷の表にあたる。町人が居住した町屋敷地は、赤色が寺社地(三角州の標高の高い北東側に集中)、黄緑色が田畠や農民の屋敷地として色分されている。田畠は、三角州の標高の低い中央部にあり、洪水の際の遊水地となった。農民の屋敷地は、主に三角州南西端の河添に所在している。また、享保四年(1719)に三の丸南側に開校した藩校明倫館と享保五年(1720)に三角州外の南側の椿町南端に遷座した金谷天神社が描かれている。


③ 萩城下町絵図 安政元年~二年(185455)…縦58cm×横82cm
本図は、個人所蔵の「萩城下町絵図屏風」をもとに作成されたもので、萩城のあった指月山周辺が雲で隠されている。白地に氏名が記されている箇所が侍屋敷地で、氏名の頭が屋敷の表にあたる。町人が居住した町屋敷地は、町ごとにさまざまな色で塗り分けられている。赤色で塗られた箇所が寺社地で、特に寺院は三角州の北側、海岸近くに集中している。緑色の場所が、田畠や農民の屋敷地である。農民の屋敷地は、三角州南西端の河添と南東端川島に所在している。また、三角州中央部にある藩校明倫館は、嘉永二年(1849)に萩城三の丸(堀内)からこの地(江向)へ移転、拡充された。