2019年12月8日日曜日

令和1年11月11日 おたから情報班 研修報告

最初の目的地は、旧山陽道の周防高森宿(毛利敬親が参勤交代時に本陣・脇本陣104軒に分宿したと記録されています)。 マイクロバスを駅前に駐車し、案内看板で所在場所を再確認し街歩きを始めました。駅前の信号を左折すると、すぐ目につくのが「宇野千代文学碑(写真①)です。「おはん」「生きていく私」などの小説を書かれた宇野千代さんは、岩国・川西で生まれましたが、お父さんの実家がここ高森だったそうです。早くに母を亡くし、父の実家である高森で育てられた。実家は酒屋で裕福だったらしい。傍に岐阜県根尾谷から移植された淡墨桜の大木がある。



文学碑からほど近いところに、高森本陣跡(別名相川本陣と呼ばれていました)(写真②)があります。今は建屋はなく、地区の保育所があり、明日を担う人材教育の場となっています。隣には立派な「なまこ塀」があります。本陣の一部かと思いましたが、本陣とは関係なく元酒屋さんだったそうです。本陣近くに4寺社があり参勤交代時には宿舎として利用されたのかな。古民家(写真③)も残っていましたが、萩との違いは出入口が通りに対して「妻入り」(萩は「平入り」)となっています。又、「吉田松陰先生宿泊之地」「吉田松陰常宿の地」(写真④)という石碑も見られた。








次は今回初めて車から離れ列車に乗って岩国から錦町へと移動、その時の班員の感動レポートです。『清流新岩国駅のホームに立ち、どんな列車がくるかと期待しながら待っていると、岩国方面からブルーの車体に鮎やオオサンショウウオが描かれた「せせらぎ号」(写真⑤、⑥)がやってきた。まだ新しい列車で座席のクッションもいい。乗客はわれわれを入れて20名くらい。途中の駅で中学生が45人乗ってきた。列車は錦川に沿ってさかのぼり、川幅の広いところや滝のあるところでは車内放送があり、スピードを緩めて通過する。地域の足でもあり、観光列車でもある。山裾と川の間に集落があり、昔は林業で生計を立てていたのではと思われる。茅葺トタン屋根の民家が時たま見られた。紅葉には少し早かったが、車窓からの景色を楽しみながら50分の思い出に残る旅であった。』







昼食を道の駅「ピュアラインにしき」にてコンニャクの酢豚風セット(錦町はコンニャクの産地)(写真⑦)を堪能した後、オオサンショウウオの保護施設を見学した。全国では中国山地に多く生息し山口県内では錦川にしか生息していないと学芸員から説明をしていただいた。班員のレポートです。






『錦川上流がオオサンショウウオ生息地に指定されています。オオサンショウウオを河川工事の現場から保護し工事完了後に川へ戻すための活動されている施設「オオサンショウウオ保護施設」(写真⑧,⑨)が錦町にあり見学しました。施設では50匹以上、保護をしておられるそうで、中には1メートル超えた生体もいました。オオサンショウウオは夜行性で昼間はほぼ動かないそうです。おっとりしていて、思わず触ってしまいたくなりますが捕食のスピードは目にも止まらぬ速さだそうです。捕食シーンのDVDや実際に噛まれた人の写真展示もしてあり、獰猛な一面も知る事が出来ました。また錦帯橋からオオサンショウウオの姿を見た人もいるという話を聞き、ゆっくり時間を取り錦帯橋にも行きたいと思いました。』







オオサンショウウオの保護施設を後にし、錦町の町並みを散策しました。まず、本通商店街大通りの路上でマンホールの蓋(写真⑩)が目につきました。錦町の蓋の絵柄を町担当者に聞くと、シャクナゲ・アマゴ・オシドリで蓋の製作は旧錦町からのものだそうです。まさに錦町の特色を表したものと思いました。



さらに本通りより小高い所に御本陣があり、ここは毛利家から名字を拝領した旧庄屋の邸宅(写真⑪)である。江戸中期、毛利藩がこの地を「前山代宰判」として勘場がこの建物内に置かれていた。現在の建物は一度焼失後、江戸末期文久元年に再建されたものらしい。錦町も萩と同じく町全体を博物館と見立て、映画資料館・懐かしい写真館やお菓子の館など錦町の歴史や文化、商店のおたからにスポットを当て、関係する場所やお店で展示されていました。





オオサンショウウオの保護施設で、学芸員等の説明に熱心に聞き入ったため時間の余裕がなく、各建物内まで見学できなかったのが残念です。






これまでの研修と違い、今年はマイクロバスで行く事が出来ました。(会員の皆様のご協力ありがとうございました)